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祖母の葬儀に参列して思ったこと

※前回に続いて今回もデリケートなテーマの記事です。
読んでいて不快に感じたら遠慮せず途中で止めてください。

 


4月6日(土)の午後10時46分、前回のブログで触れた祖母が息を引き取り、葬儀に参列しました。ブログに書いたその日の晩に亡くなったのは妙な巡り合わせを感じますが、葬儀を通して感じたことを『想い』『金』『愛』の3テーマでつらつらと書いていきます。

 


<想い>

正直な話、母から訃報の連絡を受けたとき葬儀に参列するかどうか少々悩みました。
亡くなったという事実を前にしても祖母に対して特に感情が動くことはありませんでしたし、東京から実家(笑)である徳島までの往復の交通費や礼服の用意、2、3日バイトを休むことによる収入の低下等が主な理由ですが、祖母の遺体と直接対面すれば何か心が動くかもしれないし、ずっとそばにいた母や叔父たちがどんな様子なのかも気になるし、なによりこれもひとつの社会勉強だと思うことにし、参列を決意。

結論からいうと、祖母に対しては終始なんの感情も沸いてきませんでした。
母や叔父はときどきすすり泣いていましたが、自分や姉は祖母と一緒に暮らした日々があるにも関わらず、現地に到着して遺体と対面しても、告別式で声をかけても、納棺で花を添えても、火葬中も骨上げしても「ここまで感情が欠落していたのか」と自分でも驚くほど欠片も込み上げてくるものはありませんでした。

※念のため言っておきますが、いち故人を弔うという気持ちは持ち合わせていたつもりです。

元々、祖母に対する想いが皆無なせいもありますが、自分が『死』に対してそれほどネガティブなイメージがないからかなと思います。

病気や怪我で日を追う毎に動かなくなっていく身体。そんな苦痛まみれの肉体から解き放たれ自由になるという『救い』の面が『死』にはあると考えています。

死が辛く哀しいものとして扱われるのは、故人との関係をこれ以上続けることが不可能になってしまった現世の人々が『もっとしたかった・言いたかったことがあったのに』という後悔の念が強いからなのかなと思います。

そうはいっても、この世の全てはいつか終わりますからね。

死んでから嘆き悲しむくらいなら、生きてる内に心ゆくまで会えばいいじゃないですか。
生きていても会ってない間は実質死んでいるようなものですし。

ていうか自分もいつか死ぬんだから、結局いつかあの世で会えるならなんの問題もないですよね?『会ってない間は実質死んでる』理論の延長になりますが。

まあここまでの論は自分がまだまだ人生のひよっこのせいもあるので、本当に大切な誰かとの別れに遭遇したとき、自分がどんな表情をするのかちょっと想像が出来ませんね。案外すさまじく号泣するかもしれません。

今のところは祖母の他界よりもイチローの引退やJanne Da Arcの解散や今年の1月に若くして亡くなったアバンティーズのエイジくんのほうが心が揺らぎましたね。
引退や解散もある意味『死』と同じですからね。どんな形であれ全てのものはいつか終わると考えて、いつ終わっても後悔しないような日々を送りたいものです。

 


<金>

ここからはちょっと話は変わって、葬儀・宗教というビジネスについて思ったことを書きます。

僕はそもそも『あの世なんて存在しない』と考えていて、物語としての神話や心霊関係のネタは大好物なのですが、現実で世界中のあらゆる宗教が自分たちの『あの世のイメージ』をすり込んで関連グッズを買わせたりイベントを催したりするのが気に入りません。

そもそも本当にあの世という世界があるなら、宗教によってあの世の世界観がバラバラなのはおかしいですよね?(それとも国によって風土が違うからそれと同じ事なのか?)埋葬方法だって様々ですし、弔い方もいろいろです。

自分が見えない、知らない世界を『自分の理解を超えているから無い』と言い切るのも浅はか甚だしいとは思いますが、臨死体験してる人だってテレビや世間で植え付けられた死後の世界のイメージを夢に見ているだけじゃないかと思いますし、まあこればっかりは科学的に説明が出来ないので結局自分が死んでみないと答えはでないですよね。

僕が問題視しているのは、死者への弔いや仏様への御供えを理由に絢爛豪華な装飾の仏閣を造ったり、演出として哀しげなBGMをかけたり、パチンコ屋の新装開店みたいにケバい華の置物を並べて遺影を飾ったりするビジネス臭い部分です。

結局この世は仕事と金で出来ていて、葬儀業界の方々がいないとそこら中で死体があふれかえって大変なことになりそうだから『社会を上手にまわすシステム』として必要なお仕事だとは思いますが、葬儀を通して正直思ったのが「無駄が多いなぁ」という感想です。

特に無駄だと思ったのは『通夜は遺体の前で一夜を過ごし、蝋燭や線香の火を絶やしてはならない』というルール。これは火があの世とこの世を結ぶ役割が有ると考えられていて、霊魂があの世で迷わないよう灯火を道しるべにして見守るという理由と、昔は死臭をかき消したり動物が寄ってくるのを防ぐ目的があったそうですが、最近では火災の危険や心身の問題もあり地域によっては風化している所もあったり「無理してやらなくても良い」というルールになっていて「そんな簡単に変更出来るルールならやはり迷信では?」という疑問が拭えませんよね。まあ気持ちが大事と言われればそれまでですが。

 

あと、出棺時に飾られていた生花を無造作にちぎって棺に入れるのも気になりました。花だって命ですよね?意思疎通ができないからといって一方的に燃やされるのは花としても不本意ではないでしょうか。どうしても花を添えたいというのなら、1本だけ選んで感謝と謝罪の気持ちを込めて添えた方が良いのではと思いました。

まあどっちにしても花はしゃべらないのでどう思おうが人間の勝手なんですけどね。

死人に口なしとはよく言ったもので、祖母は盛大に葬式をして欲しいとは望んでいなかったかもしれないじゃないですか。まあ生きてる側が死者を弔う際の精一杯の手向けと思えなくも無いですが、それってつまり『生きてる側の自己満足』でしかないですよね?



今ふと思ったんですけど、もしかして葬儀って死者のためというより、生きてる側が決別するための式なのか…?

もしそうだとしたらお金と労力をかけて儀式をするのも多少合点はいきます。


「あの人はこんな素敵な用意で極楽へ逝ってくれた」
「だからもう心配ない。自分たちははやく日常に戻ろう」

そう言い聞かせて前に進む為の式なのかもしれません。

とはいっても僧侶が仰っていた「最近は葬儀をされない方も多いですが、されないと魂がずっと現世を彷徨うことになりますので、皆様是非葬儀をして仏様を極楽へ導いてください」という言葉はつまり「最近儲けが少ないからもっと葬式に金使ってください」という意味だと捉えてしまいました。自分ひねくれてますかね?

とにかく、あの世にまつわるアレコレは自分が死ぬか、超凄い霊能者が現れて自分に体験させてくれるまでは絶対に信じません。

そういえば『死』とは何か数日考えているときに『心臓や脳波が停止しているからと言って死んでいるとは限らないのでは』という想像をしてしまいました。

実際蘇生の可能性がある死後24時間以内は火葬してはいけないという決まりになってはいますが、もしかしたら「肉体的には死亡と判定されても『自分という意識』はずっと生き続けているかもしれない」です。

ちょっと説明が難しいんですけど、睡眠中って眠っている間の時間は認識出来ないじゃ無いですか?起きるときに『自分を動かしている何か』が身体に命令を下して覚醒するわけですが、それって肉体が機能不全に陥った場合でも同じ事なんじゃないかと思ったんですよね。

つまり『活動したい、起き上がりたいという意識は存在するけど、肉体は全く動かないし、周りは死者扱いするから意識が残ったまま埋葬されちゃう』という恐ろしい事になっているのかもしれないなぁと想像したというわけです。

火葬されて肉体が物理的に無くなったらじゃあその意識はどこへ行くの?という疑問が残りますがもしかしたらそれを『霊体』あるいは『魂』と呼ぶのかも知れませんね。
自分の今の所の考えとしては死んだら『無』になって、いつのまにか別の何かとして再び自我を持ち現世のどこかで次の『無』に向かって進むんだろうなと思っています。

 


<愛>

最後に、愛について。


前回の記事で『母は金のために介護を続けている』と書きましたが、僕は母が祖母に対して愛情があったのかわかりませんでした。それを確かめる目的もあり葬儀に参加したのですが、たびたび流す涙を見ても確証が持てません。雰囲気に流されて悲壮感に酔っているだけなのではと思っていました。(自分で書いててなんだけどマジで最低な感想)

まあそう思ってしまうのは僕が見てきた2人の関係が非常に険悪だったからですけどね。

そこで通夜の時に思い切って「亡くなったときにどう思った?」と訪ねました。
母は「そりゃあ寂しかったよ」と答えました。

母と祖母は親子です。遠い昔、僕が生まれるずっとずっと前から、一緒の時間をたくさん過ごしてきました。だから僕が知らない積み重ねた想いがあるのかも知れません。

そもそも愛情がないと8年以上も縁もゆかりもないド田舎で介護生活なんて出来ませんし、自己満足かも知れませんが正式な葬儀を行って華々しく送ってあげたいという想いは、愛故の行動だと思いました。疑問が全て拭えた訳ではありませんし、正しい答えを探すことがそもそも見当違いなのかもしれませんが『愛の輪郭』のようなものはちょっと見えたような気がします。

まあ、それはなんだかんだ言って葬儀に参列してた自分も同じかも知れませんけど。

ただ、母は死を目前にした祖母の容態報告に絵文字を使ったり『マジ命の尊厳と看取りのあり方に悩む』とか『ヤベ~な!!こりゃ😰』等、緊張感の欠片も亡い文面を平然と送ってきて(わざと砕けた内容にして平常心を保とうとしていたのかも知れないけど)息子でも狂気を感じる所があるので母の感性に全て納得がいくわけではありません。

近い将来、自分はこの母が亡くなったときにどんな反応をするのだろう?

東京に来て8年。めっきり会う機会が少なくなった母は会う度に確実に「老いて」いっています。いつか来る別れのときには、少なくとも後悔の涙は流したくないですね。

 

 


余談ですが火葬の際にふと思った事。

祖母の身体は火葬されて骨だけになり、一部を骨壺へ納めました。
残った部分を火葬業者がどんな処理をしたのかは不明ですが『祖母の身体が自然に還った』ということは、地球に少しづつ祖母が散りばめられているのかなぁと思うと、極端にいえば命は永遠であると捉えられるし、大切な人を失った後に「自然の一部になってあの人が生きている」と全人類が思えれば、醜い争いや環境破壊は起こらなくなるんじゃないでしょうか。

誰だって大切な人を破壊したいとは思わないですよね?

大切な人との別れには、世界平和へのヒントが隠されているような気がします。