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日記・好きな事の考察や感想・オリジナル小説等を書いていきます。

6年1ヶ月のジェットコースター

昨日は自分にとって特別な日、言わば『インデペンデンス・デイ』です。

なぜならば何を隠そう最終出勤日。まさに『個人的独立記念日なわけです。
長く世話になったこの会社ともついに別れの時が来ました。

通算6年と1ヶ月、まさかこんなに長い間働くとは。
事あるごとに『辞める辞める詐欺』してきましたからね(笑)。

まあこの後一ヶ月くらいは有休消化期間なので、真の意味での退職はまだ先なんですが、とにかくしばらく働かない日々が始まりました。
思いがけずスペシャゴールデンウィークになりましたね。
しかし、ゆるゆるするつもりはございません。既に次の動きは考えてあります。
僕の活動は今後ブログやツイッターなど文明の利器を駆使して発表していければなぁと思います。

さて、会社での出来事でも語りましょうかね。

僕は2012年4月に新卒で入社しました。
前のブログでも書いたとおり、最初は『毎日機材を様々な会場に持ち込んで仮設して、イベントを馬車馬の如くこなす』所謂外現場でした。
入社して1ヶ月で同期が1人辞めたり、連日泊まり込んでいる先輩がいたりと既に『ヤベーとこ感』半端ない匂いはプンプンしていました。
まあ、この業界がキツいのは承知の上、若さ気合いで乗り切ってやるぜ!と半ばヤケクソ根性で食らいつき続けてきました。
ちなみに音響するつもりで入社したのに所属は『映像』と言われました。
何故そうなってしまったかというと、「映像系の学校出身の子らしい」というデマ情報が事前にあったそうです。
まあ電子の専門学校って聞いたらそりゃね……でも学科見てくださいよ。
サウンドクリエイト学科ですよ?どこをみて映像だと思ったのか。

キツいことは最初から覚悟していましたが、想像を絶する辛さでした。
定時で帰れる事なんてほぼ無く、大概午後10時以降に帰っていました。
終電無くなって上司とタクシーで相乗りした事も何度もあります。
でも「こんな自分よりも先輩達はもっと大変な仕事を抱えて遅くまで残業しているんだから、甘えていられないな。自分も頑張らなきゃ」と素で思っていました。
でも元々貧弱ボディだった僕には外現場で毎日ガンガン働く体力はありませんでした。
機材はクッソ重いし、上司の怒声は響くし、終電始発が毎週あるし…。
トラウマになるような失敗も沢山しました。情けなくて何度も色んな所で泣きました。
終電間際で事務所に戻った直後「人手が足りないから来て」と深夜仕込みの現場にそのまま拉致されたこともありました。
更に自分は『緊急時のとっさの判断と冷静な対応力』が著しく欠けていて、仕込みやオペは出来てもお客さんとの打ち合わせや全体管理は任せて貰えませんでした。

思うように成長出来なくて2年半働いた時、僕に待っていたのは『人事異動』でした。
これが今日まで働いていた部署『会場管理』です。
もう心身共に限界だったし、満3年を節目に辞めようとか考えていたのに、幸か不幸か人間関係がほぼリセットされてしまい、新鮮な気持ちで新たにやり直すことになりました。
こちらの部署のやり方は、外現場とは真逆の考え方でした。
若手にいきなり大型案件を任せるような無茶はしません。出来る人が確実な仕事をします。そしてよほどのイレギュラーが無い限り大抵定時で帰る。
異動した最初の1ヶ月はそのギャップに正直戸惑いました。


「え、こんなに働かなくて良いの!?」って。


残業時間が平均60時間以上から20時間以下に一気に下がりましたからね。
その分残業代が減って給料は下がりましたが、機材も基本常設の物を使うので重い機材を車に積み込むようなこともしないし、精神的にも肉体的にもとても楽なりました。
異動したばかりの頃『割と重度の腰痛』に悩まされ布団から起き上がることが出来ず、いきなり上司を困らせたこともありました。恐るべし外現場の呪縛。


ともかく、この全く変わった環境で改めて頑張ろうと元気に仕事に向かうようになりました。先輩方はこの道10年は余裕で超える頼れるベテランばかりだし、質問するとわかりやすい答えが返ってきます。僕は超ラッキーだなと浮かれポンチでした。

 

 

 

 


その油断が、命取りでした。

 

 

 

 


僕は自分が下っ端なので、先輩達の言うことさえ守っていれば安心安全。毎日無難にこなしてはい終了。という気持ちで毎日過ごしていました。成長しようという気が一切無くぶっちゃけ『仕事を舐めていた』んです。

異動して2年も過ぎた頃、上司からこう言った事を言われるようになりました。
「いつになったら一人で現場を任せられるようになるのか」
「知識が足りてないのは日々の勉強が足りないせいだ」
「早く皆と同じレベルの仕事が出来るようになってくれ」
全て事実でした。僕が担当する案件にはほぼ先輩がついていましたし、機材でも会場のルールでも知らないまま突っ込んで危うく失敗する所だったのを救って貰うみたいな事を何度もしていました。
先輩達は全員年が干支一周分以上離れていて、知識も経験も豊富で『自分が判断するより先輩達が決めたことの方が正しい。だから自分は考える必要が無い。言われたことだけ守っていけば良い』というスタンスでやり続けてきたツケが一気に返ってきました。

 

 


完全な自業自得です。これに関してはマジで僕が悪いです。

 

 


なまじ表面的な説明への理解は早かったのも、失敗に拍車をかけました。
100ある事の1を聞いただけで、全てを理解したつもりになってしまったんです。完全に天狗でしたね。
物事というのはそう単純ではない。100の事を知ろうと思ったら1~3くらいまでは他人に教えて貰っても、後は自力で調べていかなくてはなりません。そうしなければ何も身につきません。
それに気付いたのは、20代も半ばになろうかという時期でした。あきらかに周りから遅れていた自分に、ようやく焦りを覚えました。
天狗になっていた鼻をポッキリと折られ、そこから空いた時間に勉強する日々が始まりました。
でも学生の頃から勉強は苦手でした。高校の頃数学の点数はいつも1ケタでしたし、数学が得意な友人とマンツーマンで勉強しても40点がやっとでした。

僕は今までの人生で『努力して何かを得た』という経験が皆無です。
周りの環境に左右されて苦労したことはあったり、自分の才能をフル活用して活躍したことはあっても、日々の努力が実を結んで試験で良い点数をとって上位に入ったり、部活でレギュラーを勝ち取るといった、努力が報われたという思い出がほぼ無いんです。
なので分からないことがあれば勉強しなければいけないことはわかっていても、その勉強をする手段がいまいち分かりません。毎日少しずつ成長しなければいけないのに、その『少しづつ』をどうやって取得していけば良いかが分からない。
失敗した時はその度に何がいけなかったのか調べまくって、「同じ失敗は2度としないぞ」と胸に誓ったり、先輩方の良いと思ったやり方を真似してみたり、自分なりの勉強でなんとか認めて貰おうと試行錯誤を繰り返しました。
(今思えば普通の人にとっては至極当たり前のことですね。とても恥ずかしい。)

しかし、半年経っても1年経っても一向に状況は良くなりません。前と変わらず下っ端のままで、打ち合わせは出来ないわ音響オペも照明オペも出来ないわ大型案件の仕切りも出来ないわと何も成長した証を見せることが出来ません。
唯一認められていた映像オペも常駐の外注スタッフさんに完全上位互換がいるので2軍的扱い。マジで自分がこの職場にいる意味って何だろうと毎日悩む日々が続きました。
今更ですが何故自分が認められなかったのかを考察すると『いつまでも自信が無さそうにしていた』からだったんだと思います。

勉強はしてもそれ自体が間違えているかも知れない。自分が考えて動くより他の人がやった方が早いしリスクが少ない。そんな考えが腹の奥にあるから、それが日常の態度に出てしまい、いつも当たり障りのない返事をして『自分、分かっていますよ』という態度で『いいとこ取り』だけしているのを見抜かれていたんでしょう。
もちろん自分も狙ってやっているつもりはありませんでしたが、深層心理でそんな考えはずっとあったんだと思います。20数年の人生で染みついたねじ曲がり腐りきった精神は簡単には直せません。

 

この頃の僕の状態を例えるなら『子供が三途の川で石を積んでも鬼がすぐ崩しに来る』ようなモノでした。
何をやっても成果が上がらず、日々ただ虚しいだけ。自分の人生そのものがどうでも良くなってきて、髪も切らず、服もヨレヨレ、カバンや靴はボロボロになっても気にしない。
また、周囲も自分にもう見切りをつけていたのか、その態度を注意する人はいませんでした。少し前までは厳しいけど優しかった先輩が「そろそろ髪切った方が良いね」とかはっきり言ってくれました。

 

 


鏡がない世界って、人をこんなにも醜くしてしまうんだ。

 

 


モチベーションは地の底の底まで堕ち、エンジンがかからない車を無理矢理走らせるような気持ちで会社に向かう日々。毎日いつ『辞める』って言おうかと考えていた時、現場でとある『失敗』を起こしてしまいます。
(この失敗エピソードに関しては、今後別記事にしようと思います。)


とにかくこの失敗をきっかけに、僕は完全に気持ちが切れてしまいました。
もうこの職場にはいられない。自分がいても周りの足を引っ張るだけだ。そう強く思いました。
先輩達は皆本当に優しい人たちばかりで、駄目なことは駄目とはっきり言ってくれるし、出来損ないの自分の為に今まで沢山のことを諦めず懸命に指導して貰って、何一つお返しが出来なかったのはとても悔しくて、情けなくて、死にたくなりますが、自分の気持ちは風が吹かない凧。『見返してやろう』という気持ちはもう浮かびません。

上司から失敗について話があったとき、「辞める」意思を伝えました。
上司も僕の心身の状態は察していましたし、この仕事そのものに興味が無い事も、他にやりたいことがあることも知っていましたので、残念そうにしながらも承諾してくれました。
そこから2ヶ月の間、あまり負担のない仕事を任され、新人が入ってきて1ヶ月間だけ一緒に仕事して『つかの間の先輩感』を体験して昨日を持って最終出勤が終わりました。

辛いことや苦しいことが沢山あったけど、僕はこの会社に入って良かったと思っています。
2年6ヶ月外現場で長すぎる拘束時間や連日重い機材を運びまくって肉体的辛さを味わい、3年7ヶ月会場管理で厳しくもまっとうな指導を毎日して貰って精神的辛さ(あえて包み隠さず表現します)を味わいました。

 

 


この2つを転職せずに一気に体験できたのは、とても幸福なことだと思います。

 

 


自分の根本の『駄目な所』なんかが昔よりよく見えるようになったと思いますし、立ち振る舞いも少しは大人になれたと思うし、物事を論理的かつ冷静に考えられるようになりました。
辞める話をする前までは「どうせ自分なんか何やっても上手くいかないよ」とネガティブまっしぐらでしたが、今は「大概のことは出来そう」という妙な自信があります。
まあそうやって調子に乗っているとすぐまた足下をすくわれるので、自信を持ちつつ油断しないように気をつけなければいけませんね。

最後に、ここまで僕を育ててくれた人たちに深く感謝します。
在職中はその恩をあまり返すことが出来ませんでしたが、今後の僕の活動が巡り巡ってほんの少しでもあなた方の仕事や私生活に良い影響があれば良いなと願っています。

 

 


6年1ヶ月もの間、本当にお世話になりました。